ソロモン諸島の民族紛争とは?

日本軍がホニアラに空港を作ったのも、米軍がその空港を奪取して軍事基地に拡大したのも、さらには戦後宗主国の英国が戻ってきて、元の首都ツラギではなく、インフラが整備されているホニアラを新たな首都に選んだのも、独立後に発生した民族紛争を予想さえしていなかっただろう。

しかし結果としてそうなったのだ。

ソロモン諸島には120の言語、すなわち民族がいる。マライタには12の言語がある。これらの民族が統一された歴史はない。すなわちソロモン諸島という国家枠ぐみは西洋諸国によって形成されたものである。

民族紛争の主な原因は、人口が多く、勤勉なマライタの人々が島外に出ていき、そこで成功していることに対する地元の人々の嫉妬、とも言える。話は、もちろんもっと複雑だ。

 

広島大学、小柏洋子氏の論文を取り上げたい。小柏氏は南太平洋大学留学経験もあり現地を誰よりも知っている研究者だ。

「ソロモン諸島における民族紛争解決過程 -調停活動とその意味―」

小柏葉子 『広島平和科学』24 (2002) pp. 177-195

小柏論文によると、1978年の独立後約20年間は比較的安定していた。それが1998年末に民族紛争を原因とした暴動が勃発。

 

紛争に原因として下記を上げている。

ガダルカナル島に移り住んだこうしたマラ イタ島出身者たちは、コミュニティーを形成して定住し、ホニアラ地区の公務 員をはじめとする給与所得者の多数を占め、実業界にも多く進出したところか ら、地元ガダルカナル島民は、彼らに対し潜在的に反感を募らせていた」

 

フィジーのランブカ首相が、英連邦が仲裁に入るも解決せず。。。2000年5月フィジーでクーデター勃発。紛争調停役は豪州とニュージーランドに。

 

和平会議がオーストラリアのタウンズヴィルにある空軍基地で、130 人の出席者を得て6日間にわたり2000年10 月開催。タウンズヴィル和平協定(Townsville Peace Agreement)署名。

100人の死者と2万人から3万人の難民を生み出し、大きな経済的損害を引き起 こしたソロモン諸島の民族紛争は、約 2 年ぶりにひとまずの終焉

(ソロモン諸島市民となった日本人、佐藤ユキオ氏の役割がケニロレア初代首相の自伝にある)

 

タウンズヴィル和平協定

ガダルカ ナル島に向きすぎた開発を是正して、マライタ島など他の地域における保健・教育サービスを改善していくこと

・・・

しかしこの和平協定は実行されていない。

そして小柏論文で疑問に思う箇所は独立後比較的平和とあるが、以下のDr. Tarcisius Tara Kabutaulaka. A WEAK STATE AND THE SOLOMON ISLANDS PEACE PROCESS.にあるように独立して10年もしない80年代からガダルカナルでのマライタ人に対する反発はあったのだ。

 

ガダルカナルの人々は、不満を抑えきれなくなっていた。1988年、ホニアラの裏手にあるマウント・オースチンで起きた複数の殺人事件の後、多くの人々がデモを行い、連邦政府制度の設立や、"国内移民の圧力を軽減するための早急な措置 "などを要求しました。1980年代後半から1990年代にかけて、ホニアラは国の問題を反映する町としての性格を強めていった。例えば1989年、ホニアラでは、マライタの若者とレネルやベローナの若者が対立して暴動が起きた。警察の記録によると、巻き込まれた者のほとんどが失業中の若者だったという。